不随意運動の極み。

 

 

「不随意運動」

自らの意思に関係なく、勝手に体が動いてしまう現象。

 

厳密には、病気の指針やその定義の際、使われるような言葉だが、ヨガの中ではロングキープ、ホールドが長く続く際に起こる痙攣のような現象を、僕が勝手に命名している。それはアーサナを解けば勿論止まるものだが、頑張り屋さんのヨギーニは、それでも解かない事がある。

 

周りが気がつかない程度のとても小さなプルプルから、明らかにそれはやめませんか!流石に一回解こうよ!プルプルしすぎ!というタイプもある。

 

人は何故、そこまで意地を貫くのか!

 

『貫く意地』それは、平成から令和にかけ、置き去りにされた昭和の名残り。遺物でもあるかも知れない。

 

しかし、人が生き抜く為の根源的な力、根っこにもあたる場所、本分などというものに差があるとしたら、案外、このように原子的でシンプル、明確な『想い』こそが軸になってくると思う。

 

そんな想いに対して、誰かが吐き出す言葉に、『アーサナの美しさは、心の美しさと比例する事はない』。

といった類の反論もあるだろう。

 

それも確かに一理ある。

と唸らざる得ない。

グーの根もでない言葉でもある。

 

アーサナが美しければ、即、人として美しき佇まいである、人として尊敬すべき心柄を持っている。

等と言う事は無いのだ。

 

わかりやすく言うならば、例えアーサナが美しくても、心が汚れている人もいると言う事を言いたいのであろう。

 

それは嫌と言うほどこの世界を間近で見て来た僕自身、理解しているつもりだ。

 

八支則というものを盾にしながらも、礼儀のかけらも見受けられない者も、残念ながら幾多の講座の中では存在していた。今もいる。

 

しかし、それは絶望ではない。今更、そんな事で僕の心は折れはしない。人とはそんな生き物なのだから。

 

それも幾多の講座の中で学ばさせて頂いた貴重な経験なのだ。

 

今更、外からの、『アーサナの美しさは、心の美しさと比例する事はない』的な言葉に惑わされれ、冷静さを失うなど、そんな要素は一つたりともない。

 

逆に言えば、仮に礼儀がなっていない人がそこにいても、それよりもっと沢山の良い所が、マイナス以上に存在する。それも嫌と言う程、見てきているからだ。

 

当たり前のように、短所も長所も誰もが持ち合わせているのが人なのだ。

 

 

僕が愛おしいと感じるのは、不随意運動を起こしてまで何故、アーサナを解かないのか!

アーサナの向こう側に不随意運動と引き換えにしてまで『貫く意地』見せ、足りない『何か』を見つけようとする。そんな姿に単純に、人としての美しさを感じてしまうだけなのだ。

 

それはあたかもマラソンランナーが、いつの日か!というゴールに向かい、一心不乱に人知れず走る姿、一人ぼっちの練習姿にも似ているからだ。

 

優しさに似た毎日を、SNSは嫌という程、届けてくれるが、本当の優しさを教えてくれるのは、貴方の不随意運動なのです。

 

やはり、その『貫く意地』は何より美しいと切に思うのだ。

 

 

- 内田かつのり -


Yoga Anatomy Lab. × Yoga studio Manawa House

Training Courses

指導者・セラピスト養成講座一覧


アナトミックヨガ